市浦健の事務所小史

社内親睦誌「こもんすぺーす」(第2号1978年秋号 - 第5号1979年夏号)より

市浦健(1904-81年)

1904年 1月24日生まれ
1928年 東京帝国大学建築学科卒業
1936-41年 厚生省体力局嘱託、同保険局技師として勤務
1941-45年 住宅営団に勤務
1945-48年 戦災復興院にて住宅建築にかかわる
1948-51年 鹿島建設取締役、企画第三部長、名古屋支店長を歴任
1952年 (株)市浦建築設計事務所を設立
1961年 (株)都市開発コンサルタントを設立
1962年 工学博士の学位を取得
1967年 都市計画コンサルタント協議会 初代会長
1968年 市浦建築設計事務所と都市開発コンサルタントを合併し、
(株)市浦都市開発建築コンサルタンツを設立
1970年 日本建築家協会 会長
1973年 (財)住宅部品開発センター(現ベターリビング)初代理事長
1979年 都市計画コンサルタント協会 会長
1981年 11月3日逝去 享年77歳
戦後の住宅量産化の走りの中で事務所設立

この親睦誌の紙上をかりて事務所の歴史を書くことを思い立った。何回に渡るか書いてみなければわからない。今回は、まず、私が設計事務所という今の仕事を始めるまでの事を書くことにする。それには中学を終え旧制高校に入り、次第に自分の職業を決める経過を述べてゆくことから出発する。
小学校の時からクラスの内では絵がうまかったし、また好きだったので、美術学校に入るように勧める人もあったが、中学を終える頃から絵を描くことに関係のある技術の分野に進もうという考えを抱くようになったのは物理学校を卒業しながら理科方面で身を立てなかった父の勧めもあり、絵で食べられる自信もなかったので、結局、高校では一応理科を志望した。高校生活は充分エンジョイしていたが、関東大震災(1925年・大正12年)の後の復興事業が建設界だけでなく世間に大きい関心を呼び、それでは建築をやろうというのが大学で建築科を志望した動機である。しかし、二度日の受験でやっと入ったものの、余り勤勉な学生ではなく、どうにか卒業した頃は世界的の不況が日本にも押しよせ、建築界の震災復興ブームも冷えていた。もっとも私が卒業してすぐ就職しなかったのは不景気のせいばかりでなく余り学校で不勉強だったので、大学院にでも入って何か少し身を入れて研究しようという殊勝な気を起した為でもある。そこで主任教授に、自分は自動車と建築との関係を研究したいので大学院に入りたいと申し出たが、それは時期尚早だといって認められなかったが考えて見れば、東京にある全部の自動車がまだ一万台に達していなかった時代であるので余りにも先走りすぎた話だった。それで卒論に選んだ劇場建築に関連して建築音響学の研究をやることにして教授の承認を得て始めたのはよいが、これはもっと難しい技術だということが次第にわかってきた。当時、その方面ではアメリカの一・二の学者の業績が紹介されただけで、これを理論的に研究するには余程数学または物理の力が必要だということがわかった。結局、建築材料などの吸音係数を測定する実験的方面に力を注いだ。しかし、これも指導教官が居るではなく、実験装置も手づくりで作るほかなく、余り成果が上がらなかった。そのうち当時日本でも製造されだしたテックスの類の壁板、つまり吸音板を調べているうちに、別に興味をもって読んでいたグロピウスの本などに出ているトロッケン(モンタージュ)バウ(乾式構法)の研究に入って行った。大学卒業後アルバイトとして東京女高師(東京女子高等師範学校、のちの新制お茶の水女子大学)で住居の講義をしたり実地にいくつかの個人住宅を設計したが当時の工法が在来工法に止まっていて、特に左官工事が工期の決め手になっていたのを何とかしようという考えとがこれと結び付いて、幾つかのトロッケンバウの試作をやった。これがその後の住宅生産の合理化に発展し(同名の論文・建築雑誌・昭和12年)、更に、戦後のプレハブの研究にとつながっている。一方、当時、住宅のプランニンクが新しい生活様式の要求に沿って変りつつあるのに関連して、平面計画の研究にも発展してきた。昭和十六年、住宅営団に入ってこれらのプレハブや平面の研究を多くの協同者と共に手がけ、規格寸法(モデュール)や標準設計の研究を進め、やっと自分の方向が決まったといえる。(その成果は当時の建築雑誌や著書に発表)
戦後、日本には数年のブランクがあり、建築界も例外ではなかった。占領末期、次第に落着きを取り戻して、住宅の復興が日本の復興の決め手の一つであるという認識から、公営住宅がスタートし、個人住宅には住宅金融公庫が融資する制度も開かれた。そして公営住宅の促進のためには、良い標準設計を作って普及させる政策がとられる一方、量産化も積極的に進められる時代になり、再び私の出る幕となった。
そもそも住宅計画の研究は、住宅政策にも関心を持たせるようになるのは自然のことだと思うが、良質な住宅の大量建設が生活の向上にばかりでなく、社会の発展にも深い係わりあいがあるという常識がもっと建築家の内にも拡がるべきであるというのが私の信念であり、戦後独立して設計事務所を始めて、暫くして、その信念を生かす時期が到来してからは、現在のように他に例のない設計事務所に固まったのである。
これには高山英華・西山卯三氏などのすぐれた学友を得た賜であるともいえる。

1.市浦健自邸(乾式構法、1931年)|2.東京大学卒業(1928年)後の同級生と恩師達(前列左端ニ番目から岸田日出刀、内田祥三、右端が佐野利器、ニ列目左端から市浦健、前川國男、右端から谷口吉郎、太田和夫、三列目右端が横山不学)|3.パネル式組立構造試作家屋(1943年、住宅営団時代)|4.鹿島建設時代の市浦健(前列左)と鹿島守之助・卯女夫妻(前列中央・右)|5.野生司・萩・藤森の三事務所との同居(内幸町時代、前列左端が永松繁彦、後列右端が富安秀雄)

大正から昭和にかけて勃興した新しい建築運動に参加

今回は、戦前のことで事務所と直接つながらない事でも、間接には私の設計態度に深く関係していることを書いてみる。
大学を出る頃から、当時世界各地で勃興しつつあった新建築運動に少しでも感化をうけない学生は少かったであろう。ウィーンでのオットー・ワグナーを中心とする分離派運動やオランダの新建築運動、ドイツのグロピウスを中心とするバウハウスの運動、それから昭和の初め頃やっと日本にも知られるようになったコルビジェの主に著書による活動がその主なものと思う。
その頃、学生の読む雑誌は専らドイツのワスムート社から刊行されていたもので、訳せば、「建築芸術」とでもいうべき月刊誌で、他の国のものには全く見向きもしなかった。尊敬する先輩の堀口捨巳さんが中心だった日本の分離派は、毎年展覧会を開き、大正博覧会の建物の設計をすべてその仲間に委されたという華々しさだった。こういう先輩を度々学校に招いて、青くさい議論をぶっかけたりした。卒業後、自然とこういう先輩との往来も続き、昭和十年頃に、新興建築家連盟という少し革新的な団体を作ったりしたが、これは当局に圧迫されて、その中の良識派というか穏健派が堀口さんを中心とし、評論家の板垣(鷹穂)さんなど殆ど毎日の様に銀座に集まって、談論風発の何年かが続き、その時の成果は「建築様式論叢」という本になっている。その後、評論家の小池(新二)氏の提唱で、日本工作文化連盟というのをドイツのウエルクブントをもぢった団体が生れて、ここにその仲間が集り、外部にも団体として意見を発表したりしたが一方私が編集長となって「工作文化」という月刊誌を出したが、これは戦争になってからの厳しい統制でつぶされた。
私は、過去の様式から分離しょうという分離派の運動よりも、グロピウスのような合理主義(当時は合目的的主義といったが)・機能主義と、それにコルビジェの影響をうけたことは認める。前号に書いたような表面的な活動の裏に、こういう良い先輩・友人に恵まれ、それらの人との付合いが私の設計態度に少からぬ思想を与えたといえよう。その項は文筆活動も少からずやり、フランスのアンドレ・リユルサの「建築」という本を訳したり、多くの出版物に評論を書いたり、今読んでみると穴にでも入りたいようなものばかりである。
前号にかいたように戦前に住宅営団に入るまえの個人住宅の設計が一貫してグロピウスの始めたトロッケン・モンタージュバウの考え方や、コルビジェの「家は住むための機械である」というスローガンとの間に立って設計の苦労は相当味わったものである。

住宅問題の解決を目指して独立、幾多の変遷をへて現在の事務所へ

戦後独立して事務所を開く前は、戦災復興院─建設院(建設省の前身)─特別調達庁と役所のようなところで三年余りすごしたが、その時大きな組織の運営、特に法律に基づく行政官庁の良いところ悪いところを見聞したのはいま大分役に立っている。又その後鹿島建設に入って企画(といっても一種の営業)─沖縄(外国とのJV)─名古屋支店長と短期間に民間での経験も有益だったが、この仕事は私にはむかないこと、特に同族支配の色彩の強いのに大いに反撥を感じて独立后の仕事のあては何もないのに飛びだして了った。
これは二十六年の暮である。しかし将来の見透しとしては、何れ近いうちに日本の復興が軌道にのれば、住宅の仕事が多くなるだろうし、住宅営団ではやれなかった住宅問題の解決という有意義な仕事がやれるだろうという希望がわいて来た。
しかし事務所の発足当初はまだ住宅特に公共住宅の本格的な建設は資材、資金の点から何等見るべきものはなかった。独立後の第一の仕事は、三井信託銀行の大阪御堂筋支店の設計・監理であった。所員六名、一同大いに張切って頑張ったが、私の方針としてこれからの設計は建物の骨と皮とを有機的に区分してなるべく軽い建物を作るべきであるということだった。特にこの敷地の地盤の条件からも、工費の点からも言えることで、皮としては所謂スパンドレールを使うこと、骨は鉄骨でしかも一本もリベットを仕わず全溶接としてなるべく軽くし、コンクリートも軽量とすること、しかも適当な深さの地下室を設けることで杭を一切打たない構造としたことで達成された。
このアイデアは、構造を担当してもらった横山不学氏の意見に負うところが大きい。そして事務所のスタッフとして永松繁彦氏の強力な頑張り、特に周到な現場監理を行ったことで現在もビクともせず、又全く傾いた形跡もない。スパンドレールはフジサッシュの協力で永松氏のディテールが活かされ、これは後につづいた同じ系統の東京駅八重洲口の鉄道会館にも引きつがれている。又外壁の硝子は遮光と遮熱の性能のある輸入ガラスを使ったり、かなり新しい試みを盛りこんだ。この建物は現在はある、ミシン会社の大阪支店が使有している。
この他外務省の職責のクラブハウスとして麹町に建てられた霞友会館の設計監理も前のに次いで大きな建物といえよう。これは現在改築されて同名のホテルになっている。又京都大谷大学の図書館もかなり骨を折ったものであるがこの時は守屋秀夫(現芦原事務所)栗原嘉一郎(現筑波大教授)の両君の協力が頗る大きい。その他電話局、ビル、工場、寮、個人住宅等の他設計したもので特に大きいものは現在の住宅公団本社の庁舎がある。
これには、当時の所員河村節男君のきめ細かい設計態度が物を云ったといえよう。これらの仕事は大体事務所開設後十年間に行った公共住宅関係以外の主な仕事の経歴である。
事務所の所在地は最初日本橋の丸善に近い木造事務所の二階であったが、一年余りたってから京橋の中央公論社の近くの古い木造平屋に移った。この時株式会社としての再生が行われたが富安(秀雄)君が入ったのもこの時代である。この場所で一時進駐軍の仕事がかなり多かった時は二、三十名の所員が居た事もあったが、この頃から漸次仕事の重点が現在のように移って来つつあった。公営住宅法が制定されたのは昭和二十六年で標準設計は早くから作成されたが、我が事務所に始めてその委託があったのは二十八年であった。この時の設計は私の創意による所謂スターハウスと呼ばれるもので、その最初の採用例は水戸の偕楽園の近くに今も残っている。その後各地で採用され三十年に発足した住宅公団もその変型を採用した。その後各種の公営・公団の標準設計を約数十種作成している。その後事務所を京橋から内辛町の中日新聞の近くの木造二階建の二階に移し、野生司・萩・藤森の三事務所と同居した。この頃から益々事務所の性格が明確になって来た。小林(明)君が入所したのもこの頃である。その頃まだ珍らしかった大団地として名古屋の千種台の一部の配置計画は、富安君が現地で川口事務所の一隅で奮闘した。三十一年には公団と都の共同の大団地計画の最初の例として、桐ヶ丘の設計を久米事務所と共同で行った。その間、民間の共同住宅も幾つか手掛けている。富安君が公団の市街地住宅のはしりであった万世橋アパートを設計から監理まで担当したのもこの時代である。次第に所員も増えたので自分で事務所の建物を持つことを考え、三十四年頃、表参道の伊藤病院に近い敷地にブロックの二階建で延べ三十数坪のものを建て当面十五名前後の所員で専門化した事務所として続けるつもりで落着いた。一方、都市再開発の嚆矢としての防火帯も静岡から岡山へと発展し、大阪の千里ニュータウンなど団地計画の委託も増え、私としても住宅の設計より将来はその方へ重点を置くべきだと考えて、三十六年に「都市開発コンサルタント」を別会社として設立した。そして、大阪に出張所を設けたのも当時(三十八年)であった。この原宿の事務所も次第に手狭になり、昭和四十四年、南青山の根津美術館の近くに新たな土地を求め鉄骨ALCの二階建を建て、所員は三十名前後と考えて安定するつもりであった。然し、仕事は漸次その分野が拡がり、集合住宅の仕事も団地計画との深いつながりで計画することが大切であり、又、事務所としてもそこに特色を持つべきであるという新しい構想が固まり、昭和三十八年、この二つの会社を合併した次第である。そして前の事務所も三階を増築したものの、用途規制の関係から自己の建物を持つ方針を止めて、四十七年、現在の貸事務所(南青山第一マンション)に入った次第である。

安易な板状タイプに追従せず、苦心して考え出したスターハウス

前回まで、事務所の歴史をざっと辿って見たものの、いざ書く段になると記憶がはっきりしない部分が沢山あるのに気が付く。この点、私より若い富安・小林両君の方がもっとよく憶えているらしい。又、色々古い資料を探せばより正確なことが判ると思うから、それは後日に譲ることにする。

1,2.千種台団地(名古屋)のスターハウス(1956年)|3.三井信託銀行大阪御堂筋支店(1953年)|4.霞友会館(1953年)|5.内幸町時代の所員と|6.所内で|7.所内での誕生パーティー(英子夫人と)|8.原宿時代の所員と(左端から二人目が小林明)|9.岸田夫妻を囲んで(眼鏡の岸田日出刀から時計回りで、横山夫人、丹下健三、前川夫人、市浦健、岸田夫人、前川國男、丹下夫人、横山不学、市浦夫人)


それで今回は仕事の面で私の憶えていることを辿って見ることにする。
前号にものべたように、うちの事務所でやった公共住宅の設計の皮切りはスターハウスであった。これが実施された最初の例が水戸の駅につく少し手前の左の丘の上に見える。その後幾つか公共住宅に採用され、時々地方の小都市の郊外などにあるのを列車の窓から見かける。公団の標準設計になってから最もうまく使われているのは赤羽の団地かも知れない。この近くでも青山三丁目、日ケ窪の団地にもある。当時はすべての標準設計の設計料がたった一棟分の五割増にすぎないので何棟採用されようが、所謂「ローヤリティ」(著作権料)が貰えないことを何とかしようと建設省、当時住宅課長だった尚明氏に談判して、その後採用した分は、一戸に付○百円を事業主体(都道府県)が出すことにしたが、過去にはさかのぼらないということなので、うちの事務所には何の効果をももたらさなかった。公団についても同様であった。そのうち公共住宅の面積増が毎年あったので、毎年の様に標準設計が改定され、その可成りの数を吾々が引受けたので、永い目で見れば充分報われたのかも知れない。又、次第に標準設計というものの価値が見直されて来て、団地毎に設計するという傾向が強くなって今日に及んでいる。標準設計を建設省で採用した最初の理由は、全国の事業体に必ずしも自ら設計する能力が充分なかった実情への対策であった。そして、当時採用された大部分の設計は、戦前から同潤会の設計に見られる様な二戸一階段の板状タイプであった(表参道のアパートがその一例)。これらは実際にはすぐ役に立ったが、私はそのタイプに追従したくなかった。そこで苦心して考え出したのがあのポイントハウスである。このタイプは既に外国にも現われていたことには気が付かなかったが、森田茂介君から教へられ、ポイントハウス、又はスターハウスと言われていることを知った。又、久米(権九郎)さんが密かに同じタイプを考えておられたので、私の方が一足先に発表したのを悔しがって居られた。何れにしろこのタイプは戸当り工費が割高であるが、板状のタイプを平行配置する一般の安易な又単調なやり方に比べ、団地の景観に大きな変化を与えるばかりでなく、板状を配置しにくい形の団地にも建てられるという利点がある。
そのほか住宅の平面では公団の市街地住宅の最初の例の一つとして建てられた万世橋アパートに採用したメゾネットの設計が注目を引いた。これは同時に建てられた晴海の例と一脈通ずるところがあるとも言えるが、内容は全く異なり三階構成のコルビジェのマルセーユのタイプにヒントを得て、富安君が考え出したものである。
その後の平面は高層化に伴い外廊下が自然と多く導入され、効率を上げるため中廊下も珍らしくなくなったが、中廊下の暗さを救い浴室の排気の点も考えて、小林君が考えたS型の平面も独自に考え出されたもので、これはその後変化しつつ発展しているといえよう。又最近低層化と平行してNPSの考え方を建設省や他の方面と協同して開発したのも、うちの事務所の自慢してよいことだろう。
配置計画も敷地の面積が大きくなって団地の計画といえるものは当時は仲々チャンスがなかった。そのうち最初の都内の大団地といわれた赤羽の桐ヶ丘の配置計画を公団の本城(和彦)氏の計らいで、久米さんと私とが協同してやる事になった。まず全体計画を両者で考へることから始った。北の部分を公団が、南の部分を都が建てることになっていたが、後で全部都営住宅を建てることになった。配置も双方で合意したものに決定し、建築の実施設計は北を久米さんの方でやり、南はうちでやった。またその頃から建築家協会に住宅・都市計画の委員会を設け、これを久米さんと二人で交代に委員長をやったり、二つの委員会に分けて見たり数年その活動が続けられた。又当時建設省に居られた前田勇君の提唱で、協会に高層住宅の設計を研究する仕事が委託され、私が委員長になり、三年ばかりかかって可成りの作業を積み重ね、その結果を技報堂から「高層アパートの設計」として出版したが、当時まだ世の中では高層を建てる情勢になく、この建物も数年の間、出版社にかなり眠っていたのは今から考えると隔世の感がある。しかし、この委員会では役所・公団・大学の他、設計者などが一体となり勉強したことは、その後の関係者には大変役立っていることは間違いない。団地の配置については前にも述べた様に、何とか平行配置による単調な環境を打開させるべく努力したが、その点で先鞭をつけたのは久米さんの方が少し早く、大阪府の古市団地が特に記憶されている。然しその後、特に久米さんが亡くなられた頃から、うちの事務所がこのような仕事に専念していた実績が買われてか、名古屋の千種台の計画の受託に始まり、次第に公団を中心とした配置計画の経験が認められ、千里・泉北・明舞・金岡東などのニュータウンの設計の受託に発展して行った。そして、静岡・岡山の防火帯の計画、更に最近では江東の防災拠点その他の再開発じみた仕事も、それまでの積み重ねの上にやれるようになったのである。その点では成田ニュータウンと厚木が頂点のような気がする。仕事の進め方も完全に始めから基本構想に取り組んだが、最近のものは必ずしもそうでなくなった。これは一面、所謂ニュータウンらしいものが日本で作りにくくなったためであろう。しかし、その代りにもっと広域的な土地利用計画やそのための調査や生活環境整備の仕事へと発展して行こうとしている。しかし、配置の例で私としては忘れられないのは石神井団地である。何とか平行配置の型を破るべく相当苦心した。採用されたものは可成り妥協させられた事と、中央におかしな給水塔を建てられたため画龍点晴を欠いたきらいがあるが、はっきり「かこみ」を試みた許りでなく、棟の形に凹凸をつけて今日の配置手法の先鞭をつけたつもりである。一方、平行配置についても平担地で密度を抑えられると他の手が仲々使えない場合が多いのと、実際には人間の眼で見ての感覚は必ずしも図面や模型を上から見る時の感覚とは一致しないという事を考えて、千葉幸町の場合は平行配置の群の中に斜めにペデストリアンや道路を通すことで、人の眼に与える平行配置の単調な印象を救う試みをやった。この事からとかく図面や模型を上から眺めて配置を考えることが陥る危険を、常に注意している私の方針が判ってもらえると思う。そのために日本ではいち早くモデルスコープを使うことを始めたのである。建築・計画どの分野でも常に何か新しい分野を開き、又新しい考え方を導入することを考えるのが事務所の伝統でありたい。しかしその新しいことが単に新奇なものというのではなく、より良い生活環境を創り出すために月並みなことから脱脚しようと努力することなのである。

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